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西宮芸術文化協会のあゆみ
ホーム
さらに、家を失った避難者のために多くの公共施設が
提供され、市民ギャラリーも大谷記念美術館もその例外
ではありませんでした。
市政70周年で計画されていた行事はすべて中止となり
ます。当時の馬場市長をはじめ市職員は避難所開設から
始め、復旧作業へ全力投入。市民もまた、それぞれの生
活回復への努力集中のなか、西宮市芸術祭は開催された
のです。
そして、翌平成8年夏、震災発生から丁度1年半の後、
協会は立ち上がったのです。震災関連施策で窮地に立っ
ている市当局への負担軽減をも含めて、使用可能になっ
た市民ギャラリーでの第24回西宮市芸術祭美術展開催へ
自主的協力を行いました。アミティホールでの音楽、古
典芸能も開催され、文化を語る会では「地域の文化は自
らの手で」が語られました。悲嘆にくれる人々に芸術文
化が活力の灯をともしたと言われる一つの例が西宮芸術
文化協会の活動によって示されたのです。
平成9年、野外文化事業も再開されました。ただし、
従来の舞台設置方式ではなく、より多くの会員が参加す
るかたちでのエコバルーンなど、市民が鑑賞する側だけ
でなく参加するかたちでの催しに変身したのです。鑑賞
者は延べ7千人を数えました。平成4年のバブル崩壊、
平成7年の大震災にも負けず芸術文化の灯は保たれまし
た。また、この年には西宮市民文化賞(団体賞)を
西宮芸術文化協会が受賞しました。
いよいよ活動へ──(昭和49年〜)
この様にして動き始めた西宮芸術文化協会は、昭和49
年に第3回西宮市芸術祭で市民寄席と音楽会が加わり、
文教住宅都市西宮にふさわしい催事に発展していくこと
になります。
現在は古典芸能の名称に統一されている芸能は、この
頃は寄席、能、の名称で隔年開催されていました。吉田
文雀、露乃五郎、吉井順一、辻久子諸氏がエネルギッシ
ュにステージを繰り広げていました。会場は市民会館ホ
ール、勤労会館ホール、大谷記念美術館などで、それぞ
れ数百人から3千人を超える鑑賞者を集める恒例行事と
して定着していきました。
昭和35年、池田内閣の所得倍増計画以前から成長を始
めていた日本の社会も、昭和43年にはGNP世界第2位
になり、昭和45年大阪万博の開催を経てベトナム戦争終
結という高度成長の時代の中、世界の芸術界でもキネテ
ィクアート、コンピューターアートが出現するなど活力
あふれる時代でした。
協会設立3年目の昭和50年、協会はただちに芸術文化
センター、芸術館、展示場の整備を市に要請陳情をはじ
めます。一方で、協会はその運営と活動を一層確実なも
のにするため運営委員に昭和52年会計、同53年副代表と
事務局長職を決め、また、芸術文化の存在を明確化する
意味から新入会員推薦にかかる取扱いを協議して、阪神
間はもとより、全国的に注目を集める西宮芸術文化協会
の基盤を確かなものにしていきました。




活動のための要望──(昭和56年〜)
会員数95人で発足した協会も昭和56年には171人の会員
を擁していました。日本経済も第2次石油ショックを経
験していたとは言え、カード電話出現、パソコン100万台
突破という力を保っていた頃です。昭和56年、協会では
より強く美術展示場や音楽練習場建設を市当局へ求める
ため調査委員会を構成して基本構想を検討します。入会
金、年会費も各1万円に改正されます。

他方で、音楽会、古典芸能鑑賞会、美術展など創造的
活動も繰り広げていました。合唱とアンサンブルのため
の紋左衛門物語、落語であやつる人形劇等々、各会員の
それぞれの分野での活動は全国レベルの地域密着活動で
した。この様なエネルギーは昭和57年の大谷記念美術館
10周年記念行事にも華を添えます。


そして昭和60年、市政60周年の年、教育文化センター
内に市民ギャラリーが遂に念願の展示場としてオープン
することになります。市政60周年記念式典の席で、協会
は市への貢献に対して感謝状を受けます。この年、新しい
会場で催された文化を語る会のシンポジウムはコーディ
ネータ-乾由明、パネリスト荒木高子、小林陸一郎、
津高和一、増田正三郎という西宮芸術文化協会の会員たち
だったのです。
95人の思いをひとつに──(昭和48年〜)
設立当初の西宮芸術文化協会の部門は12部門に設定され
ました。規約第5条で“芸術文化活動とは洋画、デザイ
ン、日本画、書道、写真、彫塑、建築、工芸、音楽、演
劇、舞踊、文芸”の12種目をいう”と定義されています。
発起人14名の呼びかけで参加した95名の会員のうち、展
示部門の会員61人が参加した3月の第1回西宮市芸術祭
は、市役所8階の大会議室に移動式パネルを設置して、
会場に展示されました。この簡素な会場に展示された作
品群は、関西圏は言うに及ばず、広く全国の注目を集め
る作家集団展としての評価を得ることになります。そし
て教育委員会発足25周年でもあり、さらに充実した展覧
会として同年10月に第2回西宮市芸術祭が開催されまし
た。


設立のころ──
昭和48年の第2回西宮市芸術祭の会場になった西宮市大
谷記念美術館は元昭和電極社長の大谷竹次郎氏死去に伴
い、西宮市へ寄贈されたものです。中浜町の邸宅は美し
い和風庭園を持つ日本家屋で、そのまま美術館として使
用された会場は、畳にカーペット敷という状態で長く活
用されました。
財界人の芸術支援、つまり、メセナは関東の出光、ブリ
ジストンの石橋氏に劣らず西宮の大谷氏、山村製壜所の
山村徳太郎氏、芦屋の吉原精油の吉原治良氏が知られて
います。なかでも吉原氏の率いた「具体」グループの活
動は前衛芸術として、広く認知され、これら西宮と芦屋
の芸術活動は美術評論家や芸術家の間で、“六甲山の見え
る場所で芸術は育つ”の伝説を生むほどになりました。
昭和52年国立国際美術館、及び国立民族学博物館が開館
されたこの時代、ポップアート、オプアート、アンフォ
ルメル、コンピューターアート、スーパーリアリズム諸
派の世界的な隆盛のなか、西宮芸術文化協会の活動も定
着し、洋画部門の須田剋太、書道部門の木村知石両氏の
大音声による火を噴く様な芸術論争が起きるなどのエピ
ソードも生まれました。
アミティホールにおける古典芸能鑑賞会(能)
アミティホールにおける古典芸能鑑賞会(日舞)
西宮、わがふるさと──(平成10年〜)
平成10年8月盛夏のなか、野外文化事業「風はサーカ
ス」が開催されます。市民と共作の風車、フラッグ、コ
ンサートなど、工夫をこらした催しの最中、突然の風雨
で風車が潰されるというハプニングにも見舞われます。
翌平成11年、実行委員会を構成して、「夙川フラッグフェ
スティバル」は1,200枚のフラッグの応募と、5,000人を超
える来場者を得ます。
同年、協会若手会員からの積極的展開への意見に基づ
き、「連鎖する表現」シリーズが始まります。
平成13年、西宮市の大プロジェクト西宮北口のアクタ
西宮の中に、市立北口ギャラリーがオープン。記念展に
協会7部門24名が出品しました。
平成14年、野外文化事業は「パイプアート」に転換。
平成15年、市の環境学習都市宣言に合わせて野外文化事
業は「夙川環境アートフェスティバル」へ転換。
設立30年を迎えた西宮芸術文化協会はやっと成年に達
し、全国へ向けて誇りある芸術文化活動の旗手としてそ
の活動を発信していく誓いを確認しあう、この30年なのです
定着・発展の時代へ──(昭和61年〜)
昭和61年、当時市は市民会館ホール改装に着手。61年
には新しい名称、アミティホールとしてお目見えします。
協会も音楽会をアミティコンサートと改称してリスト没
後、山田耕筰生誕100年コンサートを開催するなど安定し
た活動を展開します。昭和63年には協会設立15周年を迎
え、協会の明日を語るなど、「文化を語る会」が持たれま
した。また、さらなる発展を期して、15周年を期しての
野外能と音楽の提案がなされたのもこの年でした。
その2年後、平成2年には市政65周年を期して野外文
化事業が夙川河畔で開催されることになったのです。阪
急苦楽園口駅すぐ南側の川辺に、水上に突き出した舞台
が設置され、夜間照明とスピーカーを使った真夏の夜の
夢が開催されました。「初秋、夙川で演ずる能と音楽」で
す。
夏の夜に情熱のフラメンコが…
設立当時の出品作品の数々は市民を感動させた
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狂乱地価の世をわき目に、協会は着実に芸術文化活動
に専念しました。展示に障害をきたす大谷記念美術館の
改築計画に希望項目を提出したり、先進的活動「明日を
になう西宮の作家招待美術展」に対して部門ごとの全面
協力を惜しみませんでした。
平成4年、西宮市芸術祭に参加していた展示7部門と、
アミティコンサートの音楽部門、及び古典芸能鑑賞会の
芸能部門の他に、文芸部門が参加して、西宮文芸「表情」
の発行が始まります。創刊号の表紙は写真部門の本庄光
郎氏が担当しました。野外文化事業の夙川河川敷舞台の
催しも、狂言、能、フラメンコ、日本舞踊、等々、華や
かな芸術文化催事として市民に親しまれていきました。


衝撃、阪神淡路大震災発生──(平成7年〜)
平成7年の年が明けてすぐ、快晴の成人の日の休日の
あと、突如として西宮は天変地異に見舞われます。厳寒
の1月17日午前5時46分を期して、全ての西宮市民は未
曾有の極限に直面することになります。千人を超える市
内の死者の中には協会の支援者であった辰馬龍雄元市長、
津高和一会員他が含まれ、また多くの会員は家屋倒壊に
よって作品の多くを失う大惨事になったのです
ちらし、ポスター、DMにもデザインの工夫が
夜空に幽玄のひびきが浸み透る
平成12年フラッグアート、水に浮かべる展示
平成11年フラッグフェスティバルは1200枚ものフラッグが